日本の自治体や民間企業において、人材育成や組織開発の現場を細かく観察すると、最も誠実で責任感が強く、周囲から「いい人」と評される優秀な職員や社員ほど、静かに疲弊していく光景にしばしば直面する1_自治体や大企業、官公庁向けの研修事業を長年展開し、自律型人材育成や組織開発に強みを持つ株式会社アイル・キャリアは、この現象を個人の資質や自己管理能力の問題として片付けるべきではないと提唱している1。本人が「断る強さ」を持たないからではなく、個人の善意や責任感に過度に依存し、それを当然のものとして消費する組織設計そのものの欠陥に起因しているためである4。
本稿では、誠実な人が損をする組織のメカニズムを学術的フレームワークから解き明かし、個人の強さに依存しない持続可能な組織へと移行するための具体的な再設計プロセスを論じる3。
組織行動論において、職務記述書に明記されていないものの、組織の円滑な運営に自発的に貢献する一連の援助行動は「組織市民行動(Organizational Citizenship Behavior: OCB)」と定義される3。同僚への自発的なサポート(愛他主義)や、不満を言わずに組織の不便や負担を受け入れる姿勢(スポーツマンシップ)がその代表例である3。これらの行動はチームの結束力を高める重要な潤滑油となる一方で、適切な管理を欠くと深刻な副作用をもたらす3。
特に真面目で誠実な人材は、周囲の期待に応え続けようとする責任感の強さから、依頼された業務を断ることに強い罪悪感を抱きやすい3。この心理的特性に対し、周囲が無意識のうちに「あの人に頼めば何とかしてくれる」という甘えや依存を形成することで、本来は自発的であるはずのOCBが暗黙の義務へと変質していく3。このように、善意の行動が事実上強制される空気感が醸成されると、従業員は「市民行動疲労(Citizenship Fatigue)」と呼ばれる重度の心理的疲弊状態に陥る3。結果として、本業であるコア業務に割くべき活力や没頭のエネルギーが奪われ、個人の成長機会や評価、ひいては心身の健康までもが阻害される悪循環が引き起こされる3。
誠実さが正当に評価される健全な組織と、特定の個人の善意を利用(搾取)して終わる組織の構造的な違いを可視化するため、以下の比較を行う5。
| 評価・設計項目 | 誠実さが評価される組織(信頼設計) | 誠実さが利用される組織(依存設計) |
| 役割の境界設計 | 職務範囲を明確に定義した上で、役割外の自発的貢献(OCB)を組織として可視化・承認する3 | 役割の境界を曖昧にしたまま、「気づいた人がやる」という名目で特定個人に業務を押し付ける4 |
| 評価制度のあり方 | 定量成果のみならず、周囲への協調や定性的な貢献姿勢を多面的に評価へ反映する10 | 目に見える業績のみを評価し、陰でチームを支える貢献を「やって当然の雑務」と処理する11 |
| マネジメントの介入 | 定期的な1on1等を通じ、個人の業務負荷をモニタリングして組織的に再配分する5 | 「優秀だから任せておけば安心」と判断し、実質的な放置状態(ブラックボックス化)を作る5 |
| 心理的セーフネット | 「助けを求めること」「限界を表明すること」を推奨し、早期にサポートが入る環境を作る5 | 組織全体の非効率や他者の不作為(フリーライド)を、個人の自己犠牲で補填させる4 |
このモデルにおいて、従業員の受ける心理的負荷や燃え尽きリスクは、業務量、時間的プレッシャー、心理的負担などの「要求度(Job Demands)」と、裁量権、フィードバック、上司や同僚の支援などの「資源(Job Resources)」のバランスによって決定される5。通常、仕事の要求度が高まる局面においては、それを補填するための「資源」の増大が並行して設計されなければならない5。しかし、多くの組織設計では「優秀で誠実な人=放っておいても自分で何とかできる資源の豊富な人」という誤った定義がなされている5。
この誤定義に基づき、組織が提供する資源と個人に課す要求度の関係を整理すると、下表のような致命的な不均衡が浮かび上がる5。
| JD-Rモデルの要素 | 組織が「いい人(エース)」に対して引き起こす設計エラーの構造 |
| 仕事の要求度(Job Demands)の極大化 | 「彼(彼女)なら確実に仕上げてくれる」という過度な期待から、難度の高いタスクや他メンバーのフォロー、調整業務が次々と上乗せされ、心理的プレッシャーが上限に達する5 |
| 仕事の資源(Job Resources)の削減・放置 | 「高い自己解決能力がある」と過信され、マネジメントの優先順位から外される。その結果、具体的な業務指導や上司からの情緒的支援、実質的なフォローアップといった「資源」が意図的に削減される5 |
| 生じる帰結(燃え尽き:バーンアウト) | 高い資質(自己資源)を用いて初期段階こそ高出力で応えるものの、エネルギー補給がないまま過大な要求に応え続けることで安全マージンを割り込み、ある日突然、燃え尽きに至る5 |
一人の人間に、自律的な成果創出(アクセル)と他者の支援や雑務の引き受け(ブレーキ)を同時に、かつ全力で踏み続けさせるような組織運営は、エンジンが焼き付くのと同様の物理的必然として崩壊を招くのである5。
アイル・キャリアの軸をなすのは、「人は強くない。だから仕組みがいる。」という一貫したブランド思想である5。人間は本来、他者との関係性の中で揺れ動き、プレッシャーに直面すれば足がすくみ、過度な期待を背負えば静かに崩れてしまう脆さを抱えている5。それにもかかわらず、「もっと強くあれ」「断るスキルを身につけよ」と個人に課題を還元することは、組織による育成放棄と同義である5。
誠実な人が安心してその力を発揮し、不当な負担に押し潰されない組織を作るために必要なシステム再設計の具体的なアプローチは以下の通りである。
第一に、自律性を引き出す「ジョブ・クラフティング」と「手厚い心理的セーフティネット」の統合である5。メンバーそれぞれが自身の仕事にやりがいを見出し、自発的に行動することは好ましいが、それは徹底的なフォロー体制があって初めて安全に機能する5。「挑戦しても、あるいは限界を表明して助けを求めても大丈夫である」というセーフティネットを仕組みとして整えることで、誠実な人は安心して周囲と関わり、自身の本来業務に集中できる5。
第二に、定期的な対話による「動的平衡」のマネジメントの実装である5。半年に一回や年一回の評価面談といった静的なアプローチでは、日々蓄積される市民行動疲労を捉えることはできない5。週次の1on1ミーティング等を通じて、本人の要求度(仕事の難度・量)と資源(周囲のサポートや裁量)のバランスを常にモニタリングし、微調整し続ける対話の仕組みを制度化することが求められる5。
第三に、業務の標準化による「バス係数(Bus Factor)」の向上である5。「この仕事はあの人に聞かないとわからない」という属人化を排除し、情報やノウハウを組織全体で共有・平準化することは、誠実な人を「自分が休むと現場が回らなくなる」という見えない義務感から解放するために不可欠なプロセスである5。いなくても回る状態(フールプローフ)を意図的に設計することは、決して本人の存在意義を否定することではなく、彼らが過剰な心理的重圧から逃れ、より創造的で高度な意思決定業務に健全なエネルギーを集中させるための環境設計に他ならない5。
本稿をもって、これまで4回にわたり、組織のあり方や人材育成のあり方を根本から問い直してきた「設計思想シリーズ」は最終回を迎える8。このシリーズを通して提示してきたのは、技術やノウハウに先立つ、組織づくりのための本質的な「思想」である8。
私たちはこれまでの回で、「なぜエースから壊れてしまうのか」という精神論が隠す組織設計のエラーに斬り込み5、「研修効果の8割は現場の空気で消えていく」という動機づけ環境の重要性を説き明かしてきた8。そして今回、「いい人が損をする理由」というテーマを通して、個人の善意に依存しないことの決定的な重要性を論じた4。
これらに通底するメッセージは、極めてシンプルである。
「人は強くない。だから仕組みがいる。」5
私たちは、個人の強さに頼る組織づくりから、いい意味で「弱さ」を前提とし、互いに支え合える「仕組み」の設計へとパラダイムシフトを起こさなければならない5。個人に不合理な「強さ」を求める組織は、必ず最も誠実で、最も守るべき人材から失っていくことになる5。
これからの激動の時代において、真に強く、持続可能な組織を築くための土台は、一人のカリスマや一部のエースの超人的な努力ではない5。お互いが不完全であることを認め合い、誰もが安心して弱さを開示し、助けを求め合える「信頼と設計(システム)」の構築である5。誠実な人が誠実なまま、安心してその力を発揮できる組織の設計図を描くこと。それこそが、これからの企業や自治体に求められる、最も本質的で人間味に満ちた組織づくりの第一歩なのである1。
引用文献
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